名古屋高等裁判所 平成2年(ネ)631号 判決 1991年11月27日
控訴人
山本志のぶ
右訴訟代理人弁護士
松葉謙三
被控訴人
山本明男
右訴訟代理人弁護士
水口敞
同
中村伸子
同
山口敬二
主文
原判決を取り消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一当事者の求める裁判
(控訴人)
主文同旨
(被控訴人)
本件控訴を棄却する。
控訴費用は控訴人の負担とする。
第二事案の概要
本件事案の概要は、次に付加する他、原判決事実及び理由の「第二 事案の概要」の項に摘示のとおりであるから、これをここに引用する。
原判決二枚目表九行目のあとへ行を改めて「これに対し、控訴人は、『エホバの証人』の宗教活動に参加していることは認めるが、悪意の遺棄、婚姻を継続し難い重大な事由等の離婚事由の存在を否定し、被控訴人が控訴人の帰宅を認めないため、不本意ながら被控訴人や三人の子供達と別居しているが、良き妻、良き母親として家族ともども生活することを願っていると主張して、被控訴人の離婚訴訟を認容した原判決に控訴した。」と加える。
(当審における被控訴人の主張)
1 エホバの証人の教義、戒律の特異性
国民は信教の自由を有し、このことは夫婦の間でも同様であるが、夫婦として共同生活を営む以上、その協力扶助義務との関係から宗教的行為に一定の限度があることは当然である。しかし、エホバの証人の教義、戒律は、(1)輸血を受けること、(2)法事など仏式によって先祖をまつること、(3)親戚、隣近所の冠婚葬祭に付き合うこと、(4)正月、雛祭り、七夕祭り等日本古来の習俗的行事をすること、これらはいずれも神の教えに反するとして禁ずる等日本の社会のルールを否定する特異なものであって、これでは社会生活は成り立たないのである。従って、夫婦の一方がエホバの証人を信じて行動し、社会生活の一環としての夫婦共同体の機能を阻害させることは夫婦間の協力扶助義務に違背するものに他ならず、夫婦間でも尊重されるべき信教の自由の限度を超えるものである。
2 控訴人・被控訴人間の婚姻生活が既に回復し難い程度にまで破綻していることについて
控訴人が聖書研究を始めてから既に七年余を経ており、最後の別居からでも二年以上が経過している。この間、控訴人は被控訴人の「子供を取るか、神様を取るのか」との問いに対し、神様を取る旨答えており、子供達も現在では自分達を棄ててエホバの神に傾倒する控訴人に対し悪感情を持つに至っている。被控訴人も何度も控訴人に対し信仰を止めるように説得したが、ついにこれを聞き入れようとせず、更には、控訴人の実家を尋ねて控訴人の両親や親戚を交えて話合ったりもしたが、控訴人は、エホバの証人の信仰を止める気はなく、崇拝行為についても妥協するつもりはないとの姿勢で一貫している。このように、控訴人は夫である被控訴人の説得に耳を貸そうとせず、自己本位な信仰生活に没頭している。被控訴人はこのような控訴人に対し、宗教問題を超えて、もはや愛情自体を完全に失ったものである。
このような状況から、控訴人と被控訴人の婚姻生活は、その子供との関係も含めて完全に破綻しており、婚姻を継続し難い重大な事由がある。
(当審における控訴人の主張)
1 被控訴人は、エホバの証人の四つの教義、戒律を促えて、これらが日本社会のルールを否定すると主張する。しかし、エホバの証人は、これらの教義を夫を含めた他人に強要するものではなく、自らは教義、戒律を守るというだけのことで、他人に何の害を与えるものではない。もともと、日本人には本当の信仰心がなく、仏式でも、神式でも、またキリスト教式でも適当に崇拝行為をしているが、このような日本人の宗教観を基準にして、夫婦の間とはいえ、相手の信仰もしていない崇拝行為を相手に強制することは間違いである。自分の信仰しない他の宗教の崇拝行為をしないということは、信仰をもつ者の最低限の良心であり、本件においても、被控訴人が、控訴人の信仰の自由を認め、包容力をもってこれを尊重すれば婚姻生活にも何の支障も生じないのである。しかるに、被控訴人は「子供を取るか、神様を取るか」などと残酷な選択を迫り、日本人の習俗に縛られて他の人と同じようにしなければ恥かしいなどという狭い考えをもっているから、控訴人の信仰を弾圧し、夫婦関係を危なくさせるのである。
2 そもそも、夫婦間で相手の宗教活動を全く許さず、止めなければ離婚するとか、宗教の自由を認めないことにより夫婦関係が破綻したとして離婚の請求をすることは許されないのであるが、控訴人の宗教活動は、週に一回伝導者にきてもらって聖書の研究をしたに過ぎず、これにより、家事をおろそかにしたことがないばかりか、聖書を学んだことにより、夫を愛し、子を愛し、家事に勤しむことの重要性を感じ、それを実行してきたのである。このように、その宗教活動は、節度を守り夫婦の協力扶助義務の限度を超えてはいないのである。
被控訴人は、子供も控訴人に悪感情を持っていると主張するが、エホバの証人の信仰は、子供に対する愛を増す性格の宗教であり、控訴人の子供達への愛情はいささかも失せていない。被控訴人の主張は、エホバの証人に対する偏見であり、子供達に母親に対する批判的な文章を書かせるというような被控訴人の酷い養育方針に由来するものである。
第三判断
一原判決二枚目表一一行目冒頭から同四枚目裏六行目末尾までの理由説示は、次に付加訂正する他、当裁判所の認定判断と同一であるから、これを引用する。
原判決二枚目表一一行目の「甲三の一、二、」のあとへ「乙二、三、四の各一、二、五の一、二、三、六の一、二、七の一、二、」と加え、同行の「原告、被告」とあるのを「原審及び当審における控訴人、被控訴人」と改める。
同判決三枚目表三行目の「訪ねて」とあるのを「探しに」と改める。
同判決三枚目表八行目の「実家に帰ってしまった」とあるのを「被控訴人に求められて同人の許を去った」と改める。
同判決三枚目裏六行目の「するようになった」とあるのを「することもあった」と改める。
同判決三枚目裏八行目の「同月二三日、」とあるのを「同年六月二三日、」と改め、そのあとへ「新聞やテレビからの情報で、エホバの証人の教義に反感を抱いていた」と加える。
同判決三枚目裏一〇行目の「迫ったところ、」とあるのを「迫った。」と改め、そのあとへ「この時の被控訴人の考えは、実家へ帰って相談しても宗教をやめないときは、やはり控訴人に家を出るよう求めるというものであったし、控訴人も、被控訴人の言う趣旨は、宗教をやめない限り家を出て行けというものであると理解した。そこで、控訴人は、聖書を勉強しながら家に留まりたいと考えたけれども、それはかなえられないとの判断の下に、」を加え、同行目から一一行目にかけての「被告が即座に」とあるのを削る。
同判決四枚目表二行目の「被告は、」のあとへ「やむなく」と加える。
同判決四枚目表三行目の「に帰ってしまった。」とあるのを「へ戻った。」と改める。
同判決四枚目表九行目の「被告は」から同裏二行目の「応じられないとしている。」までを「同年八月以降に、控訴人の祖母の初盆(大念仏)や一周忌の法要が志摩町で行われ、被控訴人は勤務を休んで出席したが、控訴人は出席しておらず、被控訴人は親戚の中で恥ずかしい思いをした。しかし、そうしたことはあったものの別居に至るまでの間、控訴人は、信仰しながらも家庭のことは普通にしていたし、夕方から集会に出かけようとして被控訴人に止められたことが一回あるほかは、夕方からそうした目的で出かけたこともなかった。信仰のことを別とすれば、夫婦仲は、小さな喧嘩がある程度で格別悪いわけではなかった。控訴人は、現在は店員として働くかたわら週一回個人の家で聖書研究をする他、週二回『王国会館』へ通い、また週二回は伝導活動に従事するという信仰生活を送っているが、被控訴人や子供達と一緒に暮らせるようになれば、夫や子供達の生活に迷惑のかからないようにこれらの活動を控えるつもりでいる。控訴人は、現在に至るまで引き続き、被控訴人や子供達に強い愛情をもっており、被控訴人に聖書研究を続けることを理解してもらって、一緒に生活することを念願している。こうしたことから、控訴人は別居後も何回か被控訴人宅を尋ねて話合いを求めたり子供と接触を図ろうとし、また、夕食のおかずを届けたりした他、なかなか会おうとしない被控訴人に婚姻生活の回復を求めて手紙を書いたりもした。」と改める。
同判決四枚目裏四行目から五行目にかけての「憎しみ以外感じないから」とあるのを「対する気持ちも冷却し愛情も失せてしまっており、控訴人とは憎しみあっていると思うので」と改める。
二以上の認定事実(原判決引用)に基づいて以下検討する。
被控訴人は、エホバの証人の教義・戒律は特異なもので日本の社会生活にはなじまないものであると主張し、原審及び当審において、妻がこの信仰のために法事や冠婚葬祭等の親戚や地域社会の諸行事に参加しないことになれば、親戚付き合いや地域での円滑な近隣関係を保つことが困難になり、生活上重大な支障をきたすことになると供述する。たしかに、被控訴人が主張し供述するところは、古くからの風習が根強く残る地域においては一面において事実であり、伝統的にも周囲との人間関係や地域社会の習慣に反しても自分の信仰を守るというような考え方の比較的乏しいと思われる我が国においては、被控訴人の述べるところが常識的であるとみることもできなくはない。
しかしながら、夫婦といえども各人それぞれが自らの考えに基ずいて信仰をもち、それに従った生活をすることは信教の自由として保障されるべきものである。勿論、夫婦である以上、互いに協力扶助しあって共同生活を営むべきものであるから、信教の自由といっても、少なくとも夫婦間あるいは家庭内にあっては無制限のものではなく、信仰を異にする配偶者との婚姻生活の維持継続という面からそこでの信仰生活あるいは宗教活動には自ら一定の限度があると解すべきである。
このような観点から考察するに、前記のように、控訴人の家事への従事、子供の養育等婚姻生活、家庭生活における控訴人の言動は、格別非難をうけなければならないようなこともなく、ごく普通に夫である被控訴人や子供達のために行動し、生活を共にしてきたもので、その信仰生活のために、被控訴人や子供達の日々の生活が、何らかの変化を余儀なくされたというわけでもない。控訴人の信仰心は極めて堅固なものがあり、第三者からの意見や説得でこの信仰から離れるというような意思は全くないのであるが、その宗教活動は別居まではこれというものではなく、被控訴人が勤務にででいる日中に週一回伝導師から聖書の話を聞いてきたというに過ぎない。前記初盆(大念仏)や一周忌の法要に欠席した点についても、控訴人は当審での供述でこのような席もお参りはしないが出席はするし、当時は被控訴人や親戚一同にエホバの証人を信仰することを強く反対され出席しにくかったと述べている。これに対し、被控訴人はエホバの証人の教義・戒律に対する嫌悪反発から、控訴人に対しひたすら信仰の放棄を迫り、信仰を持ちつつ妻として、また母としてつとめていこうと考えている控訴人には返事に窮するような二者択一的な選択を迫ったり、離婚以外に方法はないと離婚用紙に署名を求めたりするなど、一方的で配慮を欠いた対応を続けてきたと言わざるを得ない。前記のような我が国の風土からして、親戚や地域社会(もっとも本件において控訴人の祖母の法要が行われた地は、被控訴人らの住居地ではない。)との付き合いを重視する被控訴人の考えも、一概に排斥できないとはいえ、被控訴人が、前記信教の自由という理念に理解を致して、今少し控訴人の信仰に寛容になり、一貫して被控訴人や子供達に愛情を抱いている控訴人の心情を汲み取ろうとする姿勢を示していれば、二人が別居することはなかった筈である。こうしてみると現在では被控訴人の控訴人に対する気持ちは冷え込んでいることが認められるものの、このような事態に至った大きな要因は被控訴人の側にあると言わなければならない。別居後二年以上経ているとはいえ、この別居期間は決して旧に復するには長すぎる期間ではないし、控訴人は、現在も被控訴人や子供達に強い愛情を抱き、共に、家庭生活を営むことを念願するとともに、それが可能となった場合には、宗教活動も家庭生活に影響のないような程度にする意思でいる。被控訴人も当審において、控訴人が現在している週三回程度の集会への出席については、それが英会話やテニスであれば問題ないと供述して、外出時間の点自体は家庭生活の支障とはならないとの態度を示している。そうであれば、これからでも、被控訴人が控訴人の信仰やそれに基づく活動にもう少し寛容な態度をとり、控訴人を妻及び母として受け入る努力をすれば、控訴人の宗教活動は家庭生活の支障となるべきものではなく、なお婚姻生活を回復する余地があるものと考えられる(仮に現実問題として、被控訴人が今後も控訴人の宗教活動に寛容な態度を採ることは必ずしも期待し難く、そのために婚姻生活を回復することは困難であると考えたとしても、被控訴人のそのような態度は、以上にるる判示したような理由で、法的にこれを是認することはできない。そうすると、婚姻生活を回復することができないことについて被控訴人は有責配偶者であることになり、前記のように控訴人が被控訴人と子供達に対する強い愛情、婚姻生活維持への熱意を持続していること及び未成熟の子供三名(昭和五三年生、同五六年生、同六一年生)のいることなどの本件における事情を考えれば、被控訴人の本件離婚請求を正当として認めるわけにはいかない。)。なお、当審における被控訴人の供述によると、現在では子供達の気持も控訴人から離れているというのであり、同じく控訴人の供述するところによっても、外形的にはそのようにも取れる事実が認められるのであるが、弁論の全趣旨によれば、この点は被控訴人の子供達に対する教育方針に由来するものと考えられるから、被控訴人と控訴人の婚姻生活が回復すれば、この点の解決はさほど困難であるとは考えられない。
以上判断のとおりであるから、控訴人による悪意の遺棄があるとは認められず、また、被控訴人と控訴人の婚姻関係には婚姻を継続しがたい重大な事由があるとも言えないところであり、被控訴人の離婚請求は理由がない。
三よって、これと異なる原判決を取り消したうえ、被控訴人の本訴請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官伊藤滋夫 裁判官宮本増 裁判官大内捷司)